■ 西インド諸島、メキシコ湾沿岸諸国のコーヒー栽培の始まり

 1706年、ジャワのコーヒーの若木がアムステルダム植物園へ移植され、さらにその植物園から苗木がヨーロッパ各国の植物園に移植・紹介されました。この段階では、植物園で鑑賞したり、生育を調査したりというレベルでしたが、オランダがスマトラ、セレベス、チモール、スラウェシ、バリなど次々に植民地での栽培範囲を広げるのを見て、フランスは羨ましく思っていたのです。
 そこで、フランスはアムステルダム植物園からパリの植物園ヘ移植して、苗木を育て、フランスの植民地でコーヒーを栽培しようと目論んだのですが、なかなかうまくいかしません。とうとう1714年、アムステルダム市長からルイ14世に謙譲された素晴しい一本の若木を、植物学者に管理をさせて、植物園ジャルダン・ド・プラントに移植させることに成功しました。この木は「ノーブル・ツリー」と呼ばれていて、後のフランス植民地、特に中南米コーヒーの原木となって現在の一大コーヒー生産地帯へと発展するきっかけとなった重要な若木なるのです。
 この若木の木の種から育てた苗木をフランス領のアンティル諸島(西インド諸島の一部、現在のジャマイカ、キューバ、バージン諸島など)へ輸送しようと2度にわたって試みましたが、失敗に終わってます。当時フランスからカリブの島までの航路は、嵐や海賊など想像を絶する危険な旅だったのです。この危険な航海をガブリエル・マチュー・ド・クリューという若き海軍将校が生し遂げたのでした

 彼の功績を伝える物語はコーヒー伝播の歴史上最も夢多き一章として語り継がれいる資料「オール・アバウト・コーヒー」から引用してみましょう。
航海途上のド・クリュー
 クリューはカリブの島マルチニック島で歩兵隊長を務めていました。私用でフランスへ帰っていた彼は、カリブへ戻る時にコーヒーの苗を持って帰ることを考えつきました。しかし、当時のフランスでコーヒーの苗は非常に貴重品で、厳しい管理下におかれていました。苗木を手にいれるために彼は、王様の典医のド・シラクの助けを借りました。彼は、ド・シラクが断わり切れないある高貴なご婦人の口利きで、苗木を手にいれました。
 1723年、苗木を持って、ナント港から出航しました。チュニスでは海賊に襲われ、なんとか難を逃れると次は嵐に翻弄され、やっと嵐を乗り切ると、幾人かの乗船客に略奪されそうにもなりながら、苗木を守り続けたクリューでした。
 そんな彼にとって最大のピンチは予測しなかったひどい凪でした。飲み水の蓄えがほとんど底をつき、残りの航海の為に量を制限して配給しなければならなくなりました。クリューは当時の様子を次のように述べています。
「水が不足し、一ヵ月以上にわたって割り当てられたわずかな水を私の希望の源であったコーヒーの木と分かち合わなければならなかった。その木はまだ若く、成長が止まりかけていたので、さらに手を掛けて世話をしてやらねばならなかった。」
 彼のこの献身的な行為は、彼の名を輝かせ、多くの逸話を生み、詩に謳われて賛えられました。
 マリチニック島についた彼は、プレシュールという中州に苗木を植えました。その地でコーヒーは順調に生育し、1726年には最初の収穫を得ることが出来ました。

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