■2023年1月 ブログ

節分を前にして

 少し前まで正月気分だったものが、早くも今週の金曜日には節分の日を迎えます。我が家では毎年「豆まき」を行っており、還暦を過ぎた夫婦二人で玄関と裏口へ「豆まき」を続けていますが、こんな家庭は田舎でも珍しくなったのかもしれません。もっとも、そのお陰かどうか知りませんが我が家には鬼は現れず、平和な日々を過ごすことができています。

 古来から日本の歴史の中で語り継がれる鬼は、ツノが生えた頭、つり上がった目、牙の生えた口という姿で金棒を振り回す怖いイメージですが、実際に見たこともなく、妖怪や伝説上の神といった形で伝えられてたり、「桃太郎」や「一寸法師」などの昔話などでしか登場しません。

 しかし、全国各地には鬼にまつわる場所は多く、土岐市の隣の瑞浪市日吉町と可児郡御嵩町の境に位置する鬼岩公園には、「関の太郎」という鬼が住み、近隣の住人や東山道を山越えする旅人に悪行の限りを尽くしたので、後白河法皇の命をうけた「纐纈源吾能康公」に依って誅伐(ちゅうばつ)されたという伝説があります。そして、その首を桶に入れて京へ運ぶ途中、急に動かなくなったため埋めた場所が、御嵩町に「鬼の首塚」とて残っています。

 また、可児市塩字中島の可児川(木曽川支流)にある中州には、「鬼ヶ島」であると伝えられている場所があります。この中洲は、約2000万年前に火山の噴火で発生した火砕流でできた凝灰角礫岩でできたもので、犬山桃太郎伝説で桃太郎が鬼を退治した「鬼ヶ島」だと伝えられていいます。(看板にはそう記されている)可児市のPR動画にも「鬼が島のあるまち可児市」とか、「桃太郎も住みたくなるまち可児」なんて言ってますから、本当に鬼がいたかもしれません。(岡山の人は気分悪いかも)

 とはいえ、せっかく「鬼ヶ島」へやってきたのに鬼がいません。そこで、もうひとつの「鬼ヶ島」を目指して春日井市出川町へ向かいます。ここには、「鬼ヶ島公園」という名の公園があるのです。到着すると、入口には赤鬼は金棒を持って見張り番をしており、青鬼は背中を滑り台にしておりました。さらには、公衆トイレの白壁に「みんなで遊ぼう 夢の地 鬼ヶ島」と、イラスト付きで書かれています。夢の地?鬼ヶ島って怖い場所じゃないの?何だか拍子抜けしてしまいます。 

 節分を前にして、鬼が島を巡った一日でした。

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とりあえず作ってみた

スーパーに沢山のイチゴが並んでいることから、イチゴのロールケーキの他に、お持ち帰り用のビスコッティやパウンドケーキも作ってみました。お菓子は既存の商品を応用するだけなので簡単なのですが、作りながら、「イチゴって今が旬じゃなかったよな。」と思い始めます。

 子供の頃、父親が畑の隅に作っていたイチゴは酸っぱくて、初夏に食べていた記憶があります。ところが、今では12月上旬ごろからスーパーにイチゴが並び始め、何だか冬の食べ物といったイメージが定着してしまいました。それに、イチゴ狩りの施設では5月上旬でシーズン終了といった所も多く、イチゴの季節感がよく分からなくなってしまっているのです。

 本来、ビニールハウスなどの施設を使わず、屋外の畑で栽培されるイチゴの収穫時期は46月頃だそうです。冬のあいだ休眠状態だったイチゴが春の気温の上昇とともに目を覚まし、春から初夏にかけて花と実をつけるというメカニズムです。実際、俳句の季語となるイチゴは夏を意味します。

イチゴが屋外で栽培されることが主流だったのは1960年代頃までで、徐々にビニールハウスなどで人工的に春の環境をつくる促成栽培が普及し、いちごは1112月頃から収穫できるようになった経緯があるようです。その理由は、イチゴの需要が爆発的に増えるクリスマスだそうで、品質の高いイチゴを冬の時期から収穫するために考えられた技術なんだとか。確かに、クリスマスケーキといえば、イチゴが乗ったケーキが一番に思い浮かびます。

そんなイチゴを世界で一番栽培しているは中国で、FAO(国際連合食糧農業機関)の2019年調査によれば、全世界のイチゴ生産量は889tで、中華人民共和国が321tで最も生産量が多く、次いでアメリカ合衆国が102t2番目に多くなっており、この2国で世界の生産量全体の約48%を占めています。 日本は世界で12位の16tの生産量があり、世界の生産量の約1.8%となっています。 

 その中国におけるイチゴの生産量は近年増加傾向にあり、イチゴ粉末加工品や冷凍イチゴとして日本に多く輸出されているほか、近年では中国国内での需要も高まっているようです。今回使用したドライフルーツも中国産ですから、便利に利用させてもらっているのですが、これも、シャインマスカット同様に、日本から持ち出された苗木をもとに中国で栽培が進められたと思われるだけに、ちょっと微妙な気分になります。

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みんなが手話で話した島

 定休日の月曜日、愛知県美術館で開催中の『展覧会 岡本太郎』を観るため、久しぶりJRに乗りました。その往復の時間、電車に揺られながら読んだのが、『みんなが手話で話した島』(著:ノーラ・エレン・グロース、訳:佐野 正信)です。

この本は単行本として1991年に刊行されましたが、昨年の10月に約30年ぶりに文庫版として再刊されました。「最近、聾者やその家族を題材にした映画やドラマが続いたからかな?」などと、邪推も入り混じりながらも手に取ったのです。文化医療人類学者である著者グロースがアメリカ・ボストンの南に位置するマーサズ・ヴィンヤード島に赴き、島民みんなが手話を使ってくらしていた時代を知る多数の情報提供者の証言を丹念に採集し、過去の科学的研究資料と面接によって集めた口述歴史とを照らし合わせながら、島の社会文化の来歴を解き明かし、当時の生活やコミュニティを活写した内容です。

前半部分では、18世紀の初期からイギリスのケント地方をルーツとする移民が集団で暮らすようになった歴史的経緯や、当時の交通手段では特に冬期は定期船の運行が途絶えて孤立する環境条件と相まって、19世紀を通じて島には潜性遺伝である先天性の聾者が多く生まれました背景などをフィールドワークによって探ります。そして、比較的少人数の隔離社会であった島では、劣勢遺伝の聴覚障害者を 155人に一人の割合で生み出した(村によっては 25人に一人。一方、同時期の北米全体では5728人に一人)、特殊な環境が浮き彫りになります。

しかし、この島の生活では聾者を排除したり、逆に保護したりするよりも共同体の有益な構成員として社会的、経済的に自立しており、耳の聞こえない人も聞こえる人と同じように育ち、社交し、結婚し、生計を立て、政治に参加しました。驚くべきことは、健聴者も含む島西部の集落の住民全員が島独自の手話を操り、聾者が何不自由なく生活できる環境が形成されたのです。

本書では1900年代前半までの島の様子を綴っていますが、この期間、世界中のほとんどの国では聾者は迫害と貧困のうちに一生を終えることが多かったのです。しかし、一方でこの島の聾者は何のハンディキャップもなく社会生活を送っていたということが、情報提供者へのインタビューの会話などで分かります。

「私は聾のことなど気にしていませんでした。声の違う人のことを気にしないのと同じです。」、「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ、聾というだけでした。」や、「アイゼイアとデイヴィッドについて何か共通することを覚えていますか?」、「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」、「ひょっとして、二人とも耳がきこえなかったのではありませんか?」、「そうそう、いわれてみればその通りでした。お二人とも耳が遠かったのです」などです。

 後半では現実社会と対峙し、「近年、・・聾の子供を公立の普通校に入れて健聴の子供と交流させるメインストリーミングと呼ばれる試みである。聾者と一緒に活動してる人や聾問題に取組む専門家は、この取り組みに一様に熱い眼差しを向けている。しかし、メインストリーミングの対象は子供だけである。成人で構成される共同体は、ヨーロッパでもアメリカでも、その大部分が個別のアイデンティティを維持し続けている。こうした社会的言語的孤立は、下位聾文化を生み出すことで全体の釣り合いをとっている。・・・聾者や聾について知っているつもりになっていることの多くは私たちの特殊な歴史に根ざしているものであり、決して確定しているわけではないのだ。社会がこのことを認識すれば、私たちは一層完全な平等に向けて新たな一歩を踏み出すことができるだろう。」と刊行当時(1991年)に綴っているが、30年が経過した日本では、何一つ変わってはいないように思えます。

 障がいの有無に関わらず、すべての人がその人らしく活き活きと、命を輝かせて生活できる「インクルーシブな社会」を目指す人たちもいるが、「障害」「言語」そして「共生社会」とは何かについて深く考えさせるだけで、解決策を見い出せないでいる私です。 

 ふと、岡本太郎の言葉を思い出しました。「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。」、解決策が見いだせなくても、「まずはやってみる。」から始めますか。

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タローマン

先日、お客様から愛知県美術館で開催されている、『展覧会 岡本太郎』のフライヤーをいただきました。岡本太郎の作品と言えば、小学生の頃に大阪万博で見た「太陽の塔」、

名古屋市北区にある久国寺にある、岡本太郎が制作した梵鐘「歓喜の鐘」、そして、青森県の星野リゾート奥入瀬渓流ホテルに宿泊した際に見た、東館の巨大暖炉「森の神話」、西館の大暖炉「河神」があるため、是非、見てみたいと思ったのです。

ところが、開催期間中(114日~314日)の月曜日には祝日は無く、定休日に見に行くことが出来なではないか。「なんだ これは!」と落胆してしまいます。かといって、落ち込んでばかりいてはしかたがないので、NHK教育TVで2022年7月1918日深夜)から730日(29日深夜)まで、平日深夜クロージング直前の枠で放送されていた、特撮テレビドラマTAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』10話をNHKのTAROMAN特設コーナーで観ることにしました。

♪♪ ばくはつだぁ!ばくはつだぁ!ばくはつだぁ!げいじゅつだー!べらぼうなゆめはあるか でたらめをやってごらん じぶんのなかにどくをもて じぶんのさだめ(運命)にたてをつけ うまくあるな きれいであるな ここちよくあるな マイナスに飛び込め タローマン なんだ これはー! ♪♪

元々、NHKNHKエンタープライスが主催者として参加する『展覧会 岡本太郎』大阪展のプロモーション用の企画だった岡本太郎式特撮活劇では、10話の前編・後編の二部構成となっており、毎話このテーマ曲が流れるために耳に残ってしまいました。さらに、活劇の最後には「・・・。そう、岡本太郎も言っていた。」としめくくる言葉が入ります。第1話「森の掟」では、「深く考え込むより、衝動こそが大事なのだ。そう、岡本太郎も言っていた。」といった具合で、クスッと笑いながら岡本太郎を感じることが出来るのです。

ちょっと心動かされてしまうのが、第7話「手-赤」「手-青」の言葉です。「財産でも知識でも、蓄えるほど人は偉大さを失ってしまう。過去の蓄積に拘ると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きが出来なくなる。積み重ねじゃない、積減らしなのだ。そう、岡本太郎も言っていた。」です。

そして、第9話「午後の日」の、「自分で指一本動かさず、自分の責任において何もしない。組織の人間関係に血道をあげていないか?賭けるなら自分自身に賭けるしかないんだ。そう、岡本太郎も言っていた。」なんてのも、そうそうって頷きたくなります。

 ただし、最終話となる第10話「太陽の塔」では、タローマンが地球を爆発させて、「人類全体の運命もいつかは消える、それでいいのだ。無目的に膨らみ、輝いて、最後に爆発する。そして、平然と人類がこの世から去るとしたら、それが僕には栄光だと思える。そう、岡本太郎も言っていた。」となり、地球が爆発したらアカンだろ~!!となってしまいました。 

特撮テレビドラマ『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』を観て、愛知県美術館で『展覧会 岡本太郎』を見られなくてもいいわ。そう、まめ蔵の店主も言っていた。

追伸:妻にフライヤーを見せたら、「毎週月曜日が休館日じゃないよ!」と言われてしまいました。確かに隔週月曜日です。見に行けそうです。

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新聞記事を読んで

 今朝の中日新聞「東濃版」に、業務用食器製造の光洋陶器(土岐市泉町久尻)が、器にまつわる種々の体験ができる複合施設「KOYO BASE」を今月21日にオープンするという記事が掲載されていました。自社の三階建倉庫を改装し、二階部分にランチやコーヒーを楽しめるカフェダイニング(40席)を設けるというものです。

 記事によれば、「山のわき水と微生物肥料で育てる市内の農園ファームレガーロでとれた野菜のスパイスカレー、指定農場で育てられた恵那鶏の定食など、季節に合わせた料理を提供。コーヒーに使うカップやドリッパーに特化したブランドORIGAMIによるコーヒー飲み比べも楽しめる。」とあります。個人的には、オリガミドリッパーを製造するメーカーだけに、コーヒーに特化したカフェを期待していましたが、どうやら産業観光をイメージさせる内容のようです。

 そのため、カフェで提供した皿などの製品を販売するショップのほか、絵付けや転写などを体験できるワークショップコーナーが設けられたり、隣接する工場では、職人の技と最新のオートメーションを融合させた製造過程の見学も受け付けるそうです。地元の学校の社会見学コースとして長く受け入れされている経緯もあり、こうした態勢がスムーズに取れるのでしょう。

 地元の陶磁器製造メーカーがカフェをオープンさせると言えば、昨年の1123日には、美濃焼ストローのMYSTOROを製造する株式会社カネスが運営する「Dachi Cafe and U」が駄知町にオープンしました。ドリンクは美濃焼ストローのMYSTOROで飲むことができ、陶磁器製ストローに絵付体験(要予約)が出来るといいます。

 地場産業である陶磁器メーカーの中には、ギャラリーを併設するところも増えてきましたが、異業種である飲食店を運営するなど、「知る」、「体験する」、「食べる」といった、一つの場所で複合的に楽しめる場所ができたことに、産業観光としての体をなしてきたと期待しています。また、「KOYO BASE」では工場見学もできることから「学ぶ」施設としての機能も持ちます。

 伝統産業や地場産業と言われる、地域に根付いた産業の現場や技術を一般に公開することは、産業観光の施設や企業、技術・ 製品等の PR のみならず、来訪者と周辺地域との様々な交流による地域振興や、ものづくりの重要性の啓発、文化的側面からの産業振興など社会的意義があります。

 一方、観光の側面には「知る」、「学ぶ」、「体験する」観光への志向が高まりを見せており、知的欲求を満足させることのできる観光形態が注目を集めています。私自身も旅行へ出かける前には事前に体験施設を調べることも多く、産業観光という要素があるかどうかは、地場産業にとって生き残りのためには必要だと考えます。

 地元企業にとっては、来訪者を受入れることで現場と消費者との距離を縮めることなり、消費者の声を直接聞くことがで、興味や嗜好性などをうかがう中で新たな商品開発へのヒントを得ることも可能です。逆に、来訪者は製造過程を見学することで、企業と製品の印象をより強く受け、企業や製品に対するファンとなります。

 ここ数年、企業による偽装や改ざん等、製品や商品に対する信頼性が失われるきっかけとなる事件が各地で発覚し、多くの消費者が製造現場に不信感を抱いている状況にあります。こうした中で、現場を自ら公開することは、製品の製造、製作に対する企業の取り組み姿勢や、製品の安全性をアピールすることができ、消費者からの厚い信頼を得ることにもつながります。同時に、工場を公開することで、工場内の清掃や整理等が強化され、製品の品質自体の向上にもつながるでしょう。

 「KOYO BASE」のような事業所の公開や展示・体験施設の存在によって、地場産業についての理解や興味を広げることで、地域の若者が陶磁器産業で働く契機になれば一番良いのですが。ただ、それまでには、残るべき事業所への淘汰といった厳しい段階を踏まなければなりません。 

 研修生という名の外国人労働者に依存しながら、原料高、燃料高に悲鳴をあげている地元企業からの声を聞くたび、地場産業の将来を危惧しながらも、新しい動きに期待してみるのでした。行政の作る箱モノだけの空っぽ施設を見るたび、民間企業の取り組みが頼もしく見えてしまいます。

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ぶんぶんぶん~

♪ぶんぶんぶんハチが飛ぶ~♪といった虫の羽音を意味する言葉は、オランダ語では「BOMMEN(ボメン)」というそうで、14世紀に英語圏に入ったとき「BOOM(ブーム)」となったそうです。そして、17世紀に入ると、“船の帆が風を受けて音を立てて進む様”を表す時に使われるようになり、19世紀になって現代のように“人気が出る様”を言うようになったんだとか。

 その「ブーム」を広辞苑で調べると、「1.にわかに需要が増し、物価がはねあがること。2. あることが急に人気を呼んで、一時的に非常な勢いで流行すること。または、特定の人が熱狂的にもてはやされること。また、その期間。」とあります。どちらにしても長続きしないものではあることは共通しています。最近のブームでは、タピオカ・ブームや高級食パン・ブームといったものが浮かびますが(既に古いかも?)、ブームに疎い私は他に浮かびません。どうせ覚えても消え去るものですから、いちいち関心を持つ必要もないのです。

 そんなブームに疎い私でも知っているのが、最近、自家焙煎コーヒーブームだというのです。個人による自家焙煎店への新規参入や、大手企業といった異業種からの参入で、コーヒーの自家焙煎が急増してマシンの生産追いつかない状況なんだとか。焙煎セミナーは盛況で予約が取りづらくなっているようです。

そのうえ、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻で半導体をはじめとするコーヒー機器の部品の一部が調達困難になっていることが需給逼迫に追い討ちをかけているようですが、「足らない!」という状況が「欲しい!」という欲求を高める効果もあって、数年は自家焙煎コーヒーブームが続くのでしょう。しかし、あちらこちらでコーヒー豆を焙煎しても、飲用する人口が増えなければ当然のごとく淘汰されます。お客様の動向を見ても、「お酒はなくても、生きていける。」というほどのコーヒー好きは少ないのが現実です。

一般的に、ブームが来たと言われ出した時には頂点近くにまで達しており、徐々に下降線を辿ると言うのが常識です。そんな時に、「私もやってみるか!」などという妙な欲は出さぬが良いというものです。ブームを起こす側ではなく、ブームに乗っかるほど怖いことはないのですから。所詮、にわか・一時的な現象がブームです。また新たなブームが起こってくるのが世の常というもの。

♪ぶんぶんぶんハチが飛ぶ~♪ではないですが、ミツバチは数が増えて密集すると春に分蜂します。冬を越して春を迎えることのできた群れは、外敵の侵入に強かったり、周りに十分な蜜源があるなど、何かしら有利な場所ということになります。そのため、ニホンミツバチは、より若く寿命が長い次の世代に良い家を継がせるわけです。人間では出て行くとすれば娘ですが、ミツバチの世界では逆で母親が家を出ていき、新たな場所に巣を作るといいます。 

このような分蜂はミツバチの生きるための術ですが、限られた需要に過剰な供給は長続きしません。また、新たな儲け話を求めてビジネスを始めるのが現代のブームです♪ぶんぶんぶん~とブームは過ぎ去った後に、しっかり残れる珈琲屋でいたいものです。

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今年もいいことありそう

お客様から新年早々、立て続けにお土産を頂いています。いつものことながら大変ありがたいと同時に、申し訳ないと恐縮しています。お返しできるのは心を込めた一杯のコーヒーくらいのものですが、これでご勘弁を。

頂いた品は、昨年末に淡路島へ旅行予定だと話しておられた方から、淡路島たまねぎ100%使用の「玉ねぎスープ」と、名古屋へ出かけられた方から、中区大須の(資)朝日軒の「手焼きせんべい」、そして、東京の築地ちとせ定番商品「鯛安吉日」です。

「玉ねぎスープ」は血液ドロドロになりやすい私にはうってつけの品で、早速カップにお湯を注いで飲みました。玉ねぎってだけで健康になった気分になるから不思議です。朝日軒の「手焼きせんべい」には、今年の干支のウサギの焼き印があります。こういうのって月日が過ぎると有難味が薄れるので、年始に頂くと嬉しくなります。さらに、追い打ちをかけるように「鯛安吉日」の縁起の良い鯛の形をしたフィナンシェと続き、「今年もいいことありそう!」といった具合でテンションあがりました。 

こんな気分させてもらってばかりですが、お客様にもコーヒーで癒しや喜びを届けたいと思う店主であります。

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一枚の年賀状

正月過ぎに初めて店にやってくると、裏口のポストに一枚の年賀状が入っていました。まめ蔵宛に年賀状が届くことは殆どなく、生豆商社からの年賀状も最近は届かなくなったくらいです。ですから、見慣れない差出人の名前を見ても、いったい誰なのか直ぐに分かりません。それもその筈、もう8か月以上前から来店されなくなったお客様でした。

そのお客様は、お昼前後の来店客が少ない時間帯にカウンターに一人座り、コーヒーを飲みながら、「ほっとする。」と言って穏やかに時間を過ごされます。まめ蔵を開業して1年経過したころからご夫婦で来店されていましたが、奥様の体調が優れずなくなってお亡くなりになり、その後、週に数回来店されていました。ところが、昨年の春から急に来店されなくなったのです。年齢も米寿を超えた高齢ということもあり心配していたのですが、まさか年賀状をいだたくとは思いもよらなかったのです。

年賀状の冒頭には、「美味しいコーヒーが飲みたいよ!」と書かれ、「昨年は滅茶苦茶でした」とあります。いったい何が起きているか飲み込めなく、思いもよらぬ方からの年賀状に驚くばかりです。何だか悲鳴にも似た年賀状が気になって、数日後、朝食後に夫婦二人分のコーヒーを淹れた後に再びコーヒーを淹れ、保温ボトルに詰めて店に行く前に届けることにしたのです。

一人暮らしをされているお宅に着いてインターホンを押すと、「玄関は開いてますよ。」と返事があります。久しぶりにお会いした表情には大きな変化は無く、コーヒーを届けると「申し訳ない。」と何度も頭を下げられました。私は心配事が去って、一安心しながら店へと向ったのでした。

それから数日後、お客様が空になったボトルを持って来店されました。義理の両親の介護が終わった後に奥様の介護、ようやく一人暮らしも慣れた昨年、今度はご兄弟のご不幸や介護の応援と、日中は自宅に居ることも出来ず、寝に帰るだけだったとの事情を話されました。なるほど、葉書の最後に「これが人生でしょうね。」と達観したような文面があったことに納得したのです。

人生の大先輩には気の利いた言葉もかけられませんでしたが、「たまには、息抜きにコーヒーを飲みに来てください。」とだけ伝えました。本当に、介護の課題は身につまされます。 

出していなかった方から年賀状が届いたときは、返事を書かないことが失礼にあたることから、松の内(1月7日まで)に届くのであれば年賀状として返信します。これを「返り年賀といいます。今回は、ボトルに入ったコーヒーが「返り年賀」でしょうか。

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今朝は七草粥

今日、17日は「人日の節句」という五節句の行事で、7種類の野菜を入れた「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という汁物を食べて無病息災を願うようになったといわれ、それで「七草粥」を食べるようになったようです。もっともそんなことは考えもせず、毎年の習慣として我が家も七草粥を食べました。

 一説には、健康を願って春(新春)に若菜(春の七草のような薬草)を摘む行事を詠んだ光孝天皇(830887年)の和歌、『君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ』が、春の若菜摘みの慣わしが七草粥になったともいわれています。

 七草粥に入れる素材には、それぞれその名にちなんだ願いが込められており、

芹(せり)=競り勝つ

薺(なずな)=撫でて汚れをとり除く

御形(ごぎょう)=仏さまの体

繁縷(はこべら)=繁栄が広がる

仏の座(ほとけのざ)=仏さまが心やすらかに座っている様子

菘・鈴菜(すずな)=神を呼ぶ鈴

蘿蔔(すずしろ)=汚れのない清白

 なんてことらしいのですが、近頃は「春の七草セット」が全国のスーパーに並ぶようになり、冬の野原で七草を摘んで準備をする必要もありませんから、手軽に願いを込めることが出来るのです。ただ、「本当に七草あるのか?」と疑念が毎回あって、ついついキッチンに並べて確かめてしまいます。

考えたら、こんな寒い時期に七草を見つけるのは大変だし、ほとんどが温室栽培なんだろうけど、北海道や東北のように寒さが厳しい場所では七草を集めるのは難しいと思ってしまいます。実際、雪深い地域には七草粥の習慣がないところもあるようで、山形県の一部では七草粥ではなく、「きのこ汁」や「納豆汁」を食べるのだそうです。また、青森県・岩手県・秋田県では「けの汁」といって、ダイコン、ニンジン、油揚げ、コンニャクなど、根菜や大豆製品などを昆布出汁で煮込んだ汁もあるようです。一応、七種類にまとめる点は共通してますね。 

今朝は七草粥を食べ、3時間後には既にお腹が空いてしまった店主です。

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いちご狩りへ

 明日からの営業再開を前に、恵那市の「馥郁(ふくいく)農園」でいちご狩りを楽しんできました。ここでは章姫と紅ほっぺ2種類の食べ比べができ、大粒ばかりなのが特徴です。そんな大粒のいちごを妻と私は56個も食べ、当然のごとく昼食抜きで帰ってきました。

 岐阜県や愛知県では章姫や紅ほっぺといった品種が多いのですが、日本国内での品種は約300種もあるようです。そもそも生食での消費量は日本が世界一だとも言われており、今日のようにいちご狩りを楽しめていますが、子供の頃は甘いイメージよりも酸っぱいものといった記憶が残っています。

 確か、いちご用のスプーンがあって、食べるときは深皿に入れて牛乳と砂糖をかけ、スプーンの背で潰しながら食べていました。そうしないととても酸っぱかったし、いちご自体も硬かったので、上手く潰せずに牛乳をはね散らかすことがけっこうありました。ピンクになった牛乳とともに口に入れてたな~。

 そもそも、いちごは野菜だから甘くなかったと言えばそれだけなんですが。園芸学では、木の実(木本性)は果物(果樹)、草の実(草本性)は野菜と分類しており、草本性であるいちごは野菜ということになります。また、農林水産省の作物の統計調査でも野菜に含まれています。ただし、実際は果物と同じように食べられていることから「果実的野菜」とも呼ばれているんだとか。それだけ、昔は野菜に近かったことになります。

 コーヒー豆も品種改良が進んで、多くの品種が存在します。けれど、高級品種と呼ばれるものは原種に近いものだったりし、むしろ原種に近いことが売りになっていたりしますから、いちごの品種改良とは違う方向性があります。さらには、そうした豆に様々な方法で香りを付着させることが流行っていたりします。 

 甘くて大きないちごを食べながら、コーヒー豆の行く末をぼんやりと考えてしまいました。

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のんびり正月

我が家の正月の光景は何十年も同じです。元日にお節と雑煮を食べてから、町内の新春歩け歩け大会に参加し、届いた年賀状に目を通して旧友の様子を知る。二日の朝は、とろろご飯を食べ、妻の実家の墓参りへ向かうことになります。

 その間、朝食後にコーヒーを飲み、午後には妻が年に一度点てる抹茶(白川茶)をいただくのですが、このワンパターンの暮らしが染み付いており、今後も変化が起こりそうにありません。これが、ザ・我が家の正月っていう感じです。 

 ただ、明日の3日になると、4日から再開する店のことが気になり出して、「焙煎しなくっちゃ!」、「ケーキを作らなきゃ!」とソワソワしてくるから不思議なものです。サラリーマン時代は、「また仕事が始まるのか!」といった憂鬱な気分とは随分違うのです。そこだけは、唯一変化したところでしょうか。

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