サイボーグになる

先月、カウンターに座られたお客様から、「今、読んでいるけど面白いよ!」といって一冊の本を紹介されました。それが、『サイボーグになる』(岩波書店)で、副題が「テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて」という、韓国の作家二人が書いた本です。

著者である、SF作家のキム・チョヨプさんは後天性難聴のため補聴器を、弁護士・作家・パフォーマーとして活動するキム・ウォニョンさんは骨形成不全症という難病のため車椅子を使っています。一日の眠っている時間以外のほとんどを機械と接合した有機体という点だけ見れば、二人は「サイボーグ的な」存在かもしれないと言っています。

 しかし、現実世界ではアイアンマンスーツを着て空を飛びまわることもできず、電動車椅子や補聴器のバッテリー切れにヒヤヒヤし、人工透析のスケジュール管理に苦労しており、いつの日か登場するであろう最先端技術や治療方法を待ってはいません。そして、「わたしは車椅子に乗っていて、その点ではあなたと同じではないけれど、わたしたちは同等だ」と言うことは、どうすれば可能なのか事例を交えながら二人が交互に語っていきます。

社会の中には、障害のある人がより良く生きるためには「損傷」を除去しなければならない、という考え方が深く浸透しており、治療だけが唯一の解決策であるという考え方は、現実で障害者がより良く生きる多様な可能性を消し去っており、「歩くこと」が一番良いという正常性の規範を押し付けや、「聞く」ことの正常性の規範として人工内耳への誤解がまかり通っています。

例として、韓国の食堂やカフェで続々と導入されているタッチパネル式のキオスク端末について触れています。コロナ時代に非対面で注文や会計ができるのは利点ですが、手の震えや視覚障害で操作が難しい障害者や高齢者は利用できません。便利なテクノロジーも、それを利用できない人を排除してしまっているというケースです。

 また、「エコロジー」という耳触りの良い言葉で広がったストロー付き飲料に対する認識も、そもそも飲み口が蛇腹になったプラスチック製のストローが、ミルクシェイクが飲みやすくした患者用のためであり、プラスチック製のストローの廃止が障害者の権利と相反する結果になっています。

「車椅子で暮らす人は2本足で立って歩くことを本当に望んでいるのか」、「テクノロジーの進歩は障害者を置いてけぼりにしていないか」という問いに、まっとうな答えを出せない私がいる。ただ、将来のテクノロジーによって障害者がサイボーグになれるとしても、それは魔法の解決手段ではないことは分かった。そして、各々の不完全さに目を向け、想像力を働かせて社会を繋いでいけば、みんなが生きやすい世界に少しずつ近づいていくだろという期待は持ち続けたい。

 読み終えて、30数年前に脳性まひの方の詩集作りの携わった、一つの詩を思い出しました。

 

『障害と共に』  宮川和生

ぼくは障害と共に生きていく

ぼくが生きているかぎり

障害がぱっと

消えてなくなるわけではありません

障害を持ったことを

くよくよしていたら

自分がみじめになります

だから

ぼくは障害を友として

たのしく

共に生きていこうと思います