伝えるということ

先日、コーヒー産地のセミナーをネットで視聴していると、通訳者の「え~っと」、「あの~」といった言葉が耳に付いて聞き取りにくかったのです。マイクの音量が低いことや、コーヒーの精選方法の説明の際に選んだ言葉が中途半端だったりと、一部の人には正確に伝わったのだろうかと気になりました。

10月にSCAJ2022で行われた産地セミナーにおいても、複数の通訳者の言葉を通して情報を得たのですが、技術的なレベルというより、コーヒーに関連する知識を通訳者がどれほど有しているのか、また、実際に経験しているかのよって通訳者の言葉や抑揚に違いがあり、聴講する側にとって理解度が違っていたことを思い出しました。

こうした時に、自分も他国の言葉がしゃべれたらな~と思うものの、端から学ぼうといった意欲もない私です。しかし、外国語でなないものの、一応、多少なりとも手話通訳に携わっている者としては、言葉を受け取る側であると同時に、相手に言葉を伝える側でもあるため、身につまされることも多いのです。

伝えるべき内容を正しく正確に表現することは当然であっても、相手の年齢や経験値などによる理解度は異なってきます。「自分は間違いなく伝えたんだ」と思っても、実際には理解されていないことは多いものです。その場合、多少の比喩や部分的な省略をしながら情報を伝える技術が必要なのですが、それ以上に、自分自身が言葉の意味を正しく理解しているのか、分かりやすい日本語を持っているのかが重要になります。

以前、EテレのハートネットTV フクチッチ(10)「障害者と選挙 後編」を見た際、政治の取材歴20年以上のベテラン記者が、知的障害のある人たちに向けたわかりやすい参議院選挙の記事づくりに挑戦する内容でした。その記者が「むずかしい言い方をするって、ある意味、楽なんですよ。なんか、分かったような感じになるってね。分かりやすく伝えることは、薄っぺらということでは全くないので、やっていて、自分が本当にニュースの中身を理解できているのか、問いかけみないなものもある。」と話していました。ホント、分かったような気になるって感覚は確かにあります。 

 私は語学力が高い訳でもなく、伝える表現力もあるとは思っていません。だからこそ、ツイッターのような短文でのコメントは苦手なため、業務連絡的な使用しておらず、ブログを使って拙い文章を綴っています。それが、自分には合っていると考えているからです。伝えることは難しいことですが、自分以外の人が存在している世界では、コミュニケーションは必要不可欠なものです。だからこそ、自分自身が学び続けることが大切だと感じたのでした。