幸せの時間

 先日読んだ、「珈琲屋の人々~どん底の女神~」(著:池永陽)の中で、冬子が玲子に強い口調で放った言葉が印象に残っています。「幸せって玲子さんが考えているよな、そんな大きなものじゃない。玲子さんの頭のなかにあるのは楽しさのようなもので、本当の幸せじゃないと思う。」「朝日をあびて、ああ元気が出るなあと思ったときや、夕日を眺めて美しいなあと感じたとき。ご主人がおいしそうにごはんを食べているのを見て、思わず頬が緩んだとき。それに、寒いときに温かい飲物を口にして、ほっと一息ついたときや、他人から受けた思いがけない親切・・・私はそんな、ささいな歓びが本当の幸せだと思う・・ そして、そんなささいな歓びは、玲子さんも今までの結婚生活のなかで何度も経験してきたはず。それを思い出してほしい。そんな小さな喜びの連続が、生きるってことだということを。」

 冬子は、幸せは味わうものではなく、そっと噛みしめるものだと思うというが、幸せの感じ方は多種多様にあるように思える。三大幸福論と言われる、ヒルティ、アラン、ラッセルの『幸福論』から、椎名林檎の『幸福論』まで、時代や立場によっても捉え方は様々です。信仰や信念を持って生きることが幸福につながるとするヒルティ、くじけない楽観主義を説いたアラン、幸福とは待っていれば向こうからやってくるものではなく、自ら獲得すべき能動的な営みであるとするラッセル。「君が其処に生きているという真実だけで幸福なのです」と歌う椎名林檎とは随分違うものです。

 私は冬子の感覚に近く、そう気付いたのが比較的早かったこともあり、幸せを感じる期間が長いと思っています。「当たり前の日常にこそ、幸せはつまっている」と、ラジオのパーソナリティの方も言っておりましたが、コロナ禍でその当たり前の日常が変容している近頃だからこそ、楽しさばかりではなく、そっと噛みしめる幸せに気付く時間にしてもらいたいものです。コロナ禍だから失うものもあれば、見つけられるものもあるような気がするんだけど。 

 毎日、コーヒー豆を購入される方のために、せっせと焙煎する時間に幸せを感じるまめ蔵の店主でした。