山之上で梨狩り

 祝日の月曜日は、私にとって「家庭の日」でもあります。サラリーマン時代は土日祝日が休みだったこともあり、家の用事をする機会が多かったものの、今ではほとんど妻に任せっきりになっています。ですから、祝日の月曜日は、様々な用事を与えられ、せっせと(多少手抜きしながら)こなして家庭サービスをするのです。 

 今回、事前に妻に尋ねると、「梨狩りに行きたい。」というリクエストです。どうやら、先月、娘達が桃狩りに行ったことを聞いていたので、自分たちも〇〇狩りがしたいと調べ、二十数年ぶりに美濃加茂市にある山之上観光果樹園へ梨狩りすることに決めたようです。 

 山之上地区では、幸水、豊水、二十世紀、愛宕、新雪、晩三吉といった梨が作られ、これら梨の生産量では県内一を誇っています。そして、山之上観光果樹園では、8月中旬から下旬は幸水梨、9月上旬から10月中旬は二十世紀梨の梨狩りが楽しめます。なので、この時期は二十世紀梨の梨狩りとなりました。 

 子供の頃は、長十郎という甘味が少なくザラつき感のある梨を食べ、いつごろか瑞々しくて甘い二十世紀梨に変わってきました。その頃は何て甘いんだろうと思っていた二十世紀梨も今では食べなくなり、果汁がたっぷりで甘味があり、酸味・渋みはほとんどない豊水や、柔らかくて甘味が多く、酸味もややある幸水を食べるようになったのです。 

 ですから、スーパーで二十世紀梨を見ても買うことのなかった梨でもあり、「二十世紀梨の梨狩り?」と思っていたのですが、果樹園で食べる梨は全く別物でした。何せ完熟なので甘い!そして、梨を剥く際に果汁が滴り落ちる水分量に驚きます。正直、「二十世紀梨ってこんな梨だったけ?」と言葉が出るような感想を持ちました。 

 県内一の梨の生産量を誇る山之上地区ですが、梨の生産量は千葉県や茨木県がダントツに多く、岐阜県は23位(平成28年)となっているため、他県の人にしてみれば「そこ、どこ?」ということになります。確かに、山之上地区で梨の栽培が始まったのは昭和78年頃だと言われています。 

 明治時代、当時の山之上村の上野地区は、上野ヶ原といわれ、海抜140メートルの広漠とした小松原の原野で、土壌は、赤色粘土質のやせた土地であったそうです。したがって、農地としては利用されず、旧陸軍岐阜部隊の演習地となっていました。明治末期になって八百津町からの移住者が開田を試みますが失敗し、大正10年ごろにも、別の移住者が開墾して、柿・梅・栗・桐等を植え始めますが失敗しました。 

 そんな時期に、山田仲三郎という人が雑草の中に1本の稲穂を見つけて開田に乗り出し、45畝歩の水田開発に成功します。そして、大正133月には、佐口佐太郎という人が果樹の苗を植え付けるため1坪開墾し、柿の新植を始めました。昭和5年の春には、大霜の害があり、各地の果樹栽培地帯は大被害を受けますが、山之上は地勢上その害が少なかったこともあり、新聞紙上にこのことが掲載されると、西濃方面や県内外より入植希望者が急増します。そこから、ぶどうや柿の出荷が始まり、さらに梨が植えられて、長十郎・二十世紀の2種類が出荷されるようになります。(美濃加茂市史:通史編より抜粋) 

 そんな歴史を感じながら、甘く果汁のしたたる梨を食べたのでした。