ミャンマーのコーヒーを飲みながら

 最近、ミャンマーのコーヒーを扱うようになりました。商社での商品名は「ミャンマー シャンリー・ブラックハニー」です。ミャンマーでも一番高品質コーヒーが産出されるシャン州ユアンガン、標高1,4001,600mという場所の小農家が作ったコーヒーで、庭先で育てられたコーヒーを一つ一つ丁寧に仕上げているという触れ込みです。ちなみに、「シャンリー」とはビルマ語で「シャン州の」と言う意味だそうです。 

ミャンマーの2大コーヒー生産地は、マンダレー州のピンウールウィンとシャン州ユアンガンです。1800年代後半に、ロブスタ種などのコーヒー栽培から始まり、1930年代以降アラビカ種の栽培も行われるようになります。1930年に、スコットランド人がピンウールウィンから15km離れたChaung Gwae という街でコーヒーの栽培を始めたことから、ミャンマーコーヒーのルーツはピンウールウィンが始まりと言われているようです。 

 コーヒー生産量が8,546トンの世界第39位(2017年 FAO)であるコーヒー産地としてよりも、ミャンマーからイメージするものは「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」です。世界の麻薬密造地帯の一つとして知られる、東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、ミャンマー東部シャン州の北部地域が麻薬密造地帯となっています。そして、このコーヒー豆もシャン州ということもあって、仕入れることにした理由なのです。ただ、ユアンガンはシャン州の西部であり、麻薬密造地帯とは離れています。 

ミャンマーは19世紀には英国領となっていましたが、1948年にビルマ連邦として英国からの独立をはたします。しかし、1962年には軍事クーデターによる社会主義政権が成立し、1988年の全国的な民主化デモにより社会主義政権が崩壊、デモを鎮圧した国軍がクーデターにより政権を掌握しました。その後、民主化運動の弾圧やその指導者アウン・サン・スー・チー氏の拘束・自宅軟禁、そして自宅軟禁解除を経て、民主化へ向かってめまぐるしく変わっている国です。 

そんな混乱期の1989年に、ミャンマー政府は反政府少数派グループとの停戦・和平合意交渉を行い、同時に麻薬撲滅に対する同意を取り付け、1999年から「麻薬撲滅15ヵ年計画」(1999年〜2014年)を開始しました。ミャンマー政府や国連薬物犯罪事務所(UNODC)、独立行政法人国際協力機構(JICA)などが協力し、ケシ栽培撲滅と代替作物導入に取り組んでいます。 

JICAの報告書を見ると、山間地・傾斜地においてコーヒーやコンニャクイモ、永年性作物としてパイナップルやマカダミアナッツの栽培、さらにはソバ栽培によるソバ焼酎やソバウイスキーの生産も行われているようです。ビンのラベルが日本語なので全て日本へ輸出されるのでしょうが、酒を飲まない私には見る機会もありません。 

 コーヒーの栽培を勧めているのは、国連薬物犯罪事務所(UNODC)です。アヘンの原料となるケシは、標高13001800メートルの高地で育ことから、高級コーヒーの産地と同じという立地です。また、アジアではお茶からコーヒーへとニーズが変わっていることから、将来性が見込める産業になりうると考えています。ケシは山の斜面で焼畑農業により育てており、雨期になると雨が土中の養分をすべて洗い流すため、23回収穫をすると同じ畑で栽培は難しく、また別の畑を求めて移動しなければなりませんでした。コーヒーならその場にとどまり、畑を子や孫へと引き継いでいくことができ持続可能な産業になるのという利点もあります。 

 そうしたケシから代替作物への転換は容易ではなく、いまだにケシ畑は残っています。農家がケシ栽培と同等の収入を得るまでには、まだまだ時間がかかりそうです。 

 そんなことをミャンマーのコーヒーを飲みながら、「ボーっとコーヒー飲んでんじゃねーよ!」と叱られないよう、ミャンマーの事を調べていたのでした。