山岡にアフリカンベッド?

 「岐阜県恵那市山岡町で特産の細寒天の生産が最盛期を迎えている。市街地で最低気温が氷点下4・2度を記録し、厳しい冷え込みとなった23日、老舗の丸平寒天産業(西尾憲之社長)では、従業員が白い息を吐きながら天日干しの作業をした。」(岐阜新聞1月24日) 

 こんなローカルニュースが話題になる季節になりました。私も何度か寒天作りの様子を見に行ったことがありますが、この、細寒天生産量日本一を誇る山岡町で寒天の生産が始まったのは昭和初期と言われます。しかし、寒天作りの歴史は江戸時代初期にまで遡るようです。 

「寒天・ところてん読本」(著:松橋 鐵治郎)によれば、貞享2(1685)寒い冬の時期に、島津氏率いる薩摩藩の一行が参勤交代の道すがら、京都の伏見に陣をとった際、旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門はその頃京都で作られていたトコロテンで島津氏をもてなしたそうです。その際の食べ残しのトコロテンを戸外に出しておいたところ、寒さのせいで凍結した後に乾燥した、乾いたトコロテンを発見しました。この「フリーズドライ」のトコロテンをもう一度水で戻し、再びトコロテンを作ったところ、元のものよりも見た目美しく、海藻臭さが無い美味しいものが出来たのです。 

美濃屋の主人は、フリーズドライのトコロテンを、黄檗山萬福寺を開創した「隠元禅師」に試食してもらったところ、質素な精進料理の食材として活用できると奨励されたそうです。その際に、名前を尋ねられましたが、まだ決めていなかったため、作られた旨を伝えると、隠元禅師は「寒天」と命名しました。「寒」空に放置して作るところ「てん」から、命名したといいます。

 そして、時代は進み、江戸時代末期の天保年間(1830年〜1843)。全国を旅する信州の行商人、小林粂左衛門は京都の寒天を見て、故郷信州の寒さに、寒天作りが適しているのではないか、と考え、さっそく諏訪地方に広めました。寒天作りは、諏訪地方の農家の農閑期の副業として広まったそうです。なお、原料となるテングサは伊豆から大量に買い付けていたそうです。そして、寒天製造は次第に諏訪地方の名産品として定着するようになります。

 そうした気候風土が似ている岐阜県でも寒天作りが行われた訳ですが、実は、最初に細寒天作りを始めたのは山岡町ではなく、隣の岩村町だったそうです。稲刈りが終わったあとの冬場の農家の副業として生産が始まったようで、その岩村町に倣って山岡町でも寒天栽培を始めたところ、より気候に合っていたことから、やがて山岡町での生産量が拡大していきます。最盛期には寒天製造業者が100社以上存在していたと言われていますが、現在では、安い外国産などに押されてしまい20社程度にまで減少しているそうです。

 そんな東濃地域での風物詩となった細寒天作りの風景を見ると、私は全く場所も品物も異なる、コーヒーを天日乾燥する「アフリカンベッド」を連想してしまいます。コーヒーノキから摘み取られたコーヒー豆は、集められて乾燥させますが、その乾燥方法としては、天日乾燥、機械乾燥、天日乾燥と機械乾燥の併用などが知られています。その天日乾燥の中の1つの乾燥方法として、アフリカンベッドを使ってコーヒー豆を乾燥させるという方法が存在しています。

 アフリカンベッドとは、アフリカ大陸のコーヒー生産地(特に東アフリカ)で採用されているコーヒー豆乾燥方法で、乾燥させるために木や金属製の枠を作って棚を作り、そこに網のネットを張った構造をしています。水洗処理したコーヒー豆を乾燥させる光景が、寒天を凍結乾燥させる白い棚と似ているのです。

 ちなみに、一般的な天日乾燥は、パティオと呼ばれるコンクリート製の広場にコーヒー豆を広げて乾燥させています。コーヒー豆のハンドピックをしていると、時々パティオのコンクリート片が見つかるので、産地でどのような乾燥方法が採用されているのか知ることができます。

 コーヒー栽培が出来ない地域で、コーヒーとは無縁の地場産業のニュースを目にし、遠く離れたコーヒー産地の様子に思いを馳せるのでした。