土神と狐

 お店に飾ってある絵は、イラストレーター中山尚子さんの「よだかの星」をテーマに描かれた連作の中の4作品です。その中山尚子さんから手紙が届き、瑞浪市市之廣太記念美術館で9月22日(土)から10月21日(日)まで、中山尚子原画展 [ 土神と狐 ] -宮沢賢治作品より-が行われる案内状でした。

 また、この原画展に合わせて、瑞浪市総合文化センターにおいて、9月29日(土)に絵と音楽と朗読による「土神と狐」が企画されています。「よだかの星」も同様に宮沢賢治作品をモチーフに、絵と音楽と朗読によるイベントが行われていたので、久しぶりに感じていましたが、今回の作品19点を2年がかりで制作されたようです。

 難解な宮沢賢治作品の中でも異色ともいえる童話の「土神と狐」は、中山さんの手紙に書かれたとおり、男女の愛をテーマに、人間の持つ沢山の愚かさや、業や、哀しさなどが浮き彫りになる心に深く刻み込まれる作品です。その物語の情景をどのように19点の作品に描かれているのか、定休日の月曜日が祝日の日を楽しみにしています。

 それにしても、宮沢賢治がなぜこのような物語を書いたのでしょうか。賢治の中にも荒れ狂う情念のような土神と、知的にスマートに自分を装う狐という、二人の自分があったのかもしれません。生々しくドロドロとした激しい土神のような自分の感情を嫌い、狐のような知性の衣でそれを包み、それを隠そうとしてみるものの、所詮取り繕う程度の中身のない実態を自嘲するようで、なんとも哀れな気がします。

 そんなことを考えていると、先日ブログに書き留めた楡野仙吉の言葉を思い出します。『人間ちゅーのはな、オトナになんかならへんぞ。ずーっとコドモのままや。競争したら勝ちたいし、人には好かれたいし、お金は欲しい・・・ハッハッハッハッ』です。「土神と狐」のような人間の深い業とまではいかないものの、人間の未熟な面を素直に認めてしまう方が気楽なのかもしれません。

 作品のことを思い出していると、お店の中にも時々、土神や狐に似た姿を見たりしますね。ただし、樺の木は見つけられません。