台湾コーヒーを飲みながら

 台湾コーヒーを飲みながら、コーヒー産地の嘉義に関係する映画を見ることにしました。題名はKANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年 監督:馬志翔)という作品です。この映画は日本統治時代の台湾から甲子園に出場して決勝にまで勝ち進んだ、日本人、台湾人(中国大陸から移住した漢人)、台湾先住民による「嘉義農林学校野球部」の活躍を描いた、実話をもとにした物語になっています。

 現在のように、各都道府県の代表校が甲子園大会に出場できるルールになったのは1978年(昭和53)からで、それ以前は県大会で優勝しても東北地区、九州地区などのブロック大会を勝ち上がらなければ甲子園の土は踏めませんでした。そして、戦前には満州、朝鮮、台湾の「外地」の代表校にも全国大会への参加が認められており、満州と朝鮮は1921年(大正10)ら、台湾は1923年(大正12)から参加が認められていたのです。この映画は、その嘉義農林が初めて甲子園に出場した1931年(昭和6)にスポットを当てたものです。

 映画の内容については省きますが、興味を持ったのが大沢たかお演じる「八田與一」という役どころです。映画の中では八田與一に関する説明描写が少ないのですが、台湾では教科書にも登場する知られた日本人であり、台湾の農業を変えたといわれる水利事業「嘉南大しゅう」の設計者です。台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げ、台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張り巡らせました。

 コーヒー産地の嘉義地区の反対側に位置する花蓮地区には、台湾コーヒーの父ともいえる日本人がいました。花蓮港庁庶務課産業技手をしていた国田正二です。彼は年1930(昭和5)に総統府の命を受けてコーヒーの栽培に適した場所を探します。そして、掃叭(サッパ:現在の舞鶴)台地が栽培に適していることを見つけ開拓を始めましたが、山深く毒蛇や猛獣が出没や、台風や伝染病などによる困難の中で開拓を続けます。そして、地元の名士である馬有岳の協力も得て住田珈琲株式会社を設立し、約88万坪を超える農地で生産を始め、地域雇用創出にも大いに貢献したそうです。

 戦争により台湾から甲子園への出場もなくなり、戦時中の食糧増産のためにコーヒーから戦時糧食の生産へ切り替わりましたが、台湾に関わる日本人の存在を知るにつけ、日本統治という時代背景について自分自身が余りにも知識がないことに愕然とします。現代史を端折った学校教育のせいなのか、自分が知ろうとしなかったのか、恥じながら台湾コーヒーを飲んでみるのでした。

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コメント: 2
  • #1

    帰山人 (水曜日, 08 8月 2018 15:40)

    コーヒー届きました。御礼申し上げます。
    まだ全て飲んではいないので、感想は次回伺った際にでも。

  • #2

    まめ蔵 (水曜日, 08 8月 2018 17:21)

    勝手に送りつけているので御構いなく。