深煎りの魔女と

 某ブログで取り上げていた、『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち ロンドンに薫る珈琲の秘密』(天見ひつじ:著/宝島社:刊)が面白そうだったので、早速読んでみることにしました。ただし、その際には、深煎りのコーヒーを飲みながら、著者がリスペクトした「カフェ・ヘックス 魔女のいる喫茶店」を聴きながら読むのが好ましいということなので、ネットで探した音楽サイトで曲を流しながら読んでみることに。
 けれど、直ぐに問題発生。4分程度の楽曲では、いくらオムニバスストーリーであっても読みきれるものではなく、何度も繰り返し聴くことになりますが、いかんせん小説の内容としっくりきません。ひとつひとつの楽曲はそれなりに聴けるものであっても、小説を読みながらのBGMには適さないことが分かりました。どうも、楽曲のタイトルに無理やり小説の内容を合わせた感じがしてしまいます。
 そんな違和感は、最初の曲「配達少年とドリームマウンテンSHB」に合わせて、文中に、「豆は南米産のSHBを選択。」とありますが、中米ならともかく、南米で格付けにSHBを使う国ってどこなんだろう?って思ってしまいました。また、ペーパードリップなのに、「油分の浮いた漆黒の液体はいかにも苦そうで」も、マキネッタやパーコレーターと抽出道具を使い分けている関係で、無理やりペーパードリップにしたため、油分が浮くはずもないのに、そんな表現を使う羽目になっています。
 ただ、繰り返し「カフェ・ヘックス 魔女のいる喫茶店」を聴いていたので、愛着の湧く楽曲もできました。「酔いどれ元炭鉱夫とコーヒーエール」は唯一アイリッシュ系の曲で、とても心地よい曲です。通称ゴッツーと呼ばれるKou Ogata氏によるもので、一人で何種類もの楽器を演奏して編集する様子はYouTubeでも見られ、これからも聴いてみたいと思ったしだいです。トラックリストの最後の曲には、エンディングで店のドアに付けられたカウベルの音が聴こえ、客が店を出るのを想像させますが、最初の曲が入る際には、「チリン チリン」と二度鳴り、音色が異なっています。入店と退店を連想させるにしては不自然に感じます。
 肝心の小説から逸れてしまいましたが、内容の方はネットの紹介文を借りれば、「一見したところ学生を思わせる、チェックのスカートにダークブラウンのカーディガン。そしてシャツを引き締める赤いネクタイ、朱染めのエプロンに紅茶色の髪と瞳が、彼女を見る者の目を捉える。彼女の名はアルマ。イギリスはロンドンのブルームズベリーに店を構える『カフェ・アルト』のオーナーにしてマスターである彼女を、訪れる客たちは親しみを込めて『深煎りの魔女』と呼ぶ。並々ならぬこだわりで淹れられる彼女の珈琲に入れ込む客は数知れず、上品で気の利いた焼き菓子は紳士淑女を魅了してやまない。これは『カフェ・アルト』を訪れる客人たちの、ほのかに苦くてほろ甘いオムニバスストーリー。」といったところ。
 これまでカフェを舞台にした小説をいくつか読んできましたが、『珈琲店タレーランの事件簿』でがっかりされ続けていたので、久々に爽やかな気分にしてくれました。店主が魔女だといっても、気の利いたエッセンス程度に魔法がかけられており、とても後味がよいのです。また深く考えさせられる部分もあり、『酔いどれ元炭鉱夫と命の運び手』では、「わたしがなにかしても、しなくても、悲劇は起こる。わたしは運命を変えられるけれど、変えた先で新たな悲劇が起きることまでは止められない。ねえ、アルマ、わたしは誰を救って、誰を見捨てればいいの? 一つの運命を変えて、誰かを救ったことで起きる悲劇を、わたしはどうすればいいの?」と、「夢がいつか冷めるように。魔法はいつか解けるものなの」と魔法の限界を伝えているが、このとき私は、十数年前に経験した呪縛を思い出しながら、再び自問自答を繰り返してしまった。

 深入りのマンデリンを飲みながら、三角帽ではなくバンダナをはめ、お客様の話を聞くだけしかできない私は、夢がいつか冷めるように魔法はいつか解けても、少しだけ魔法が使えるようになりたいと思ってしまいます。一瞬でも心休まる空間のお店となるように。